2026年5月28日、東京において、遠藤和也駐フィリピン共和国日本国特命全権大使と、ミレーン・ガルシア=アルバノ駐日フィリピン共和国大使(H.E. Mylene J. Garcia=Albano)との間で、高市早苗内閣総理大臣及びフェルディナンド・ロムアルデス・マルコス・ジュニア・フィリピン共和国大統領の立ち会いの下、「所得に対する租税に関する二重課税の除去並びに脱税及び租税回避の防止のための日本国とフィリピン共和国との間の条約」(日・フィリピン新租税条約)の署名が行われました。

 

今回の新条約のポイントは、「配当・使用料の一部軽減」+「PE・移転価格・情報交換・濫用防止の大幅強化」です。日系企業実務では、単に税率だけを見るのではなく、BIR税務調査・租税条約適用申請・関連者間取引・日本親会社への送金スキームへの影響として見るべきでしょう。

なお、2026年5月28日に署名された段階であり、発効には両国の国内手続と外交上の公文交換が必要です。日本側では国会承認が必要で、発効は承認通知の外交文書交換の日から30日目、実際の適用は原則として発効年の翌年1月1日以後です。フィリピン側の源泉税についても、発効年の翌年1月1日以後に取得される課税対象額から適用されます。

 

1. 全体像:旧条約から「現代型・BEPS対応条約」へ

旧条約は1980年発効、2008年に一部改正された条約でした。今回の新条約はその一部修正ではなく、財務省も「全面的に改正」と説明しており、事業利得・投資所得・条約濫用防止・仲裁・徴収共助・情報交換が主要な改正点です。

つまり、旧条約は主に「二重課税の回避」と「脱税防止」が中心でしたが、新条約はそれに加えて、租税回避、 treaty shopping、実体のない条約利用、国際的な徴収・情報交換まで明確に視野に入れています。新条約の前文にも、第三国居住者の間接的利益のための treaty-shopping arrangement による非課税・軽課税機会を作らない趣旨が明記されています。

 

2. 投資所得:一番わかりやすい変更は配当と使用料
項目 現行条約 新条約 実務上の意味
配当:高保有 10%:議決権10%以上・6か月以上 5%:持分90%以上・6か月以上 100%子会社など、日本親会社への配当で大きなメリット
配当:通常の親子会社 10%:議決権10%以上・6か月以上 10%:持分10%以上・6か月以上 10%以上90%未満では基本的に大きな税率変更なし
配当:その他 15% 15% 少数株主配当は基本的に変更なし
利子 政府受取等は免税、その他10% 政府受取等は免税、その他10% 大枠はほぼ維持
使用料 15%:映画フィルム等、10%:その他 一律10% 映画・映像・放送関連ロイヤルティ等は軽減

財務省の比較表でも、配当については新たに90%以上保有・6か月以上の場合の5%税率が導入され、使用料については現行の一部15%が新条約では10%に一本化されています。

日系企業にとって一番大きいのは、フィリピン子会社から日本親会社への配当です。たとえば日本親会社がフィリピン子会社を100%保有している場合、従来は条約上10%だったものが、新条約適用後は条件を満たせば5%になる可能性があります。ただし、これは自動適用ではなく、受益者要件、保有期間、居住者証明、フィリピン側の条約適用手続、PPT条項を満たす必要があります。

 

3. 事業利得・PE:フィリピンでの活動実態がより重要になる

新条約では、事業利得について、企業が相手国にPE、つまり恒久的施設を有する場合に限り、そのPEに帰属する利得が相手国で課税されるという基本ルールが明確化されています。さらに、PE帰属利益は、PEを独立企業のように扱い、機能・資産・リスクを踏まえて計算する方向が強くなっています。財務省も、PE帰属利得について「本支店間の内部取引を網羅的に認識し、独立企業原則を厳格に適用」と説明しています。

これは、日系企業実務ではかなり重要です。たとえば、日本親会社の社員がフィリピンで長期的に営業支援、技術支援、管理支援、PMI、システム導入、品質管理などを行う場合、サービスPE、代理人PE、実質的な事業拠点の有無が問題になりやすくなります。

新条約のPE条項では、建設・据付・監督活動は6か月超、サービス提供は12か月中183日超、天然資源関連活動は12か月中90日超でPEに該当し得る規定が置かれています。また、補助的・準備的活動の例外についても、関連企業を使った活動分割、いわゆる anti-fragmentation 的な考え方が入っています。さらに、相手国で契約締結の主要な役割を恒常的に果たす者についてもPE認定され得る規定があります。

実務的には、**「日本本社から人を出しているだけ」「契約は日本で締結しているだけ」「現地法人は単なるサポート会社」**という説明だけでは弱くなります。今後は、契約書、業務分掌、出張記録、駐在日数、指揮命令系統、誰が契約交渉を実質的に行っているかを残しておく必要があります。

 

4. 移転価格・関連者間取引への影響も大きい

新条約では、PE帰属利得や関連企業間取引について、独立企業原則がより明確になります。新条約第7条では、PEの利益を、同じまたは類似の条件で独立して取引する別個の企業であった場合に得るであろう利益として帰属させる考え方が明記されています。

これは、フィリピン子会社と日本親会社との間の以下のような取引に影響します。

日本本社へのマネジメントフィー、技術支援料、ロイヤルティ、ITシステム利用料、出向者コスト、立替費用、グループ内ローン、保証料、地域統括会社へのサービスフィーなどです。

税率だけ見れば有利になる部分がありますが、BIRから見れば、**「本当に役務提供があったのか」「価格は独立企業間価格か」「ロイヤルティとサービスフィーの区分は正しいか」「条約適用のためだけの契約ではないか」**という確認が強まる可能性があります。

 

5. 相互協議手続に仲裁が入る

現行条約でも相互協議手続、いわゆるMAPは存在しますが、新条約では、両国税務当局間の協議で2年以内に解決しない場合、仲裁に付託される仕組みが導入されます。財務省の説明でも、2年以内に解決されない場合には第三者から構成される仲裁委員会の決定に従って解決されるとされています。

これは、移転価格課税、PE課税、二重課税が発生した場合の納税者保護としては前進です。ただし、実務ではMAPや仲裁は時間もコストもかかるため、まずは事前の文書化・契約整備・価格設定根拠の整備が重要です。仲裁制度があるから安心というより、最悪の場合の救済手段が強化されたと見るべきです。

 

6. 情報交換・徴収共助が強化される

新条約では、租税に関する情報交換の対象が拡充され、さらに租税債権の徴収に関する相互支援、つまり徴収共助が導入されます。財務省は、情報交換・徴収共助について、国際的な脱税・租税回避への対処のため、両国間で情報交換と租税債権の徴収支援を行うと説明しています。

実務的には、フィリピン側での税務問題、日本側での親会社情報、関連者間取引、配当・利子・ロイヤルティの受領者情報などが、以前より連携されやすくなる方向です。したがって、日本側の説明とフィリピン側の説明が一致しているかがより重要になります。

たとえば、フィリピン子会社では「日本親会社にサービスフィーを払っている」と説明し、日本側では「単なるコスト回収」や「別の性質の収入」と処理している場合、将来的に説明の不一致が問題になる可能性があります。

 

7. PPT条項:条約メリット目的の取引は否認され得る

新条約では、条約特典の濫用防止として、いわゆるPPT、Principal Purpose Test が導入されています。条約上の利益を得ることが取引や仕組みの主要目的の一つであったと合理的に認められる場合、その条約上の利益は認められません。新条約本文でも、関連する事実・状況から、条約上の利益取得が取引・取決めの主要目的の一つであったと結論づけることが合理的な場合には、条約特典を付与しないと規定されています。

これは非常に重要です。今後は、単に「日本法人だから日比租税条約を使う」というだけでは足りません。以下のような説明が必要になります。

なぜその日本法人が受益者なのか。なぜその契約形態なのか。なぜその金額なのか。なぜその資金・知財・役務提供の流れになっているのか。

つまり、条約適用には、税率表だけでなく、商業上の合理性、実体、契約、証憑、意思決定記録が必要になります。

 

8. 実務目線での結論

今回の新条約は、日系企業にとって一部有利です。特に、**日本親会社がフィリピン子会社を90%以上保有している場合の配当源泉税5%**は大きいです。また、映画・映像等の使用料が10%に下がる点もメリットです。

一方で、BIR対応という観点では、むしろ厳しくなる部分があります。PE認定、関連者間取引、受益者性、PPT、情報交換、徴収共助が強化されるため、条約を使いやすくなると同時に、説明責任も重くなると考えるべきです。

実務上、日系企業に案内するなら、次のようなメッセージがよいです。

新条約により、一定の配当・使用料について源泉税軽減の可能性があります。ただし、新条約はまだ発効しておらず、実際の適用開始時期にも注意が必要です。また、新条約では条約濫用防止、PE課税、情報交換、徴収共助が強化されているため、条約適用を受ける場合には、単に税率を確認するだけでなく、受益者性、商業上の合理性、契約書、居住者証明、関連者間取引の価格根拠、フィリピン側のBIR手続を事前に確認することが重要です。

私の見立てでは、これは節税条約というより、投資促進と税務防御の両方を強める条約です。今後の日系企業が留意すべき点は、配当5%だけを主張するのではなく、「税率メリットを受けるには、経済合理性や実在性などの説明根拠の具備など手続き防御が必要になる」ということだと思われます。